Normalisation of Life

MD/Doctoring my doctor's document

途上

室に独り,病院の白壁しか見えない窓の外にふと注意を向けると,聞こえてきた音色はひぐらしの鳴き声でした.

 

 

 

 気付けば神戸に来て夏も5度目のようです.そして,5度目の夏JEMAを先日終えました.4年前初めてあの京都の場所に足を踏み入れた時の感覚は,今はもう昨日のように鮮明に思い出すことは出来ません.しかし,それは決して色褪せ消えてしまったのではなく,それと分からないほどに僕の身に染み付いてしまったのでしょう.あの時きっと感じたであろう緊張感,高揚感,その他全ての感情が今の僕を形作る部分となっていることは間違いありません.

 

 この4年間,1度として同じ夏JEMAを感じたことはありません.その年その年で自分のやることも,立場も,何もかもを変えて,変化を興じるように時を重ねてきました.その上で,あえて言うならば,今年が僕の中で最も今までと『違った』夏JEMAでした.この時間こそが漸く来た折り返し点なのだと.そう感じるには充分だったのです.

 

 僕は最早,この団体において形式的には何者でもありません.WJEMAの今後を支える1年生でも,セクションの本気を知り始めた2年生でも,艱難辛苦を乗り越えて勝利を目指す3年生でも,彼らが存分に力を発揮する場を後ろから支える4年生でもありません.敢えて言うなれば唯の見守り人です.

 

 僕はこれからただ,ひたすらに変化を見続けていくでしょう.それはきっと各大学のセクション運営の方法であったり,大会のマネージメントであったり,事務局がWJEMAを導いていく様で有ったりするでしょう.そこに僕の主権はなく,彼ら彼女らが藻掻きながら前へ前へと進んでいくはずです.

 

 そこに寂寞感を覚えることは,避け得ぬ事態でしょう.自分たちが作り上げ,変革してきたものが少しずつ手を離れ,知らない色を得ていく.それに言葉では安易に言い表せない思いが伴うことは,想像に難くありません.ですが,それは必然の別離であり,後ろ髪を引かれる思いのままに居座ってはならないのです.それは必要な変化の流れを殺し,振り返った時に致命的な傷痕を残すからです.

 

 変化を求め,何かをコミュニティに残してきた人はいつの間にか,変化を恐れ,体制を保持しようとする人間に変わってしまう.これは自分たちがかつて求めてきたはずの変化を奪い,可能性を摘み取ってしまう.勿論試行錯誤の末に彼ら彼女らが,現状の保持を望んだのならばよいでしょう.しかし彼らが「次」を求めた際に,障壁となることは避けねばならない.僕は,僕たちは「別離」を喜びでもって受け入れねばならないのですね.

 同時に僕たち自身も変化していく必要があります.学生とも社会人ともつかない,社会的なグラデーションの中で,自分の残してきた何かが彼ら彼女らによって少しずつ違う,また新しいものへと変わっていくさまを見つめながら,自分自身の先を見据えねばならない.変わらずにいることを許してくれるのは,自分自身だけですから.何も人を待たないのは時だけじゃない.自分以外の彼ら彼女らも,待ってはくれないわけですから.

 

 ――とか何だか,最早最初の書き出しからどこへ向かって居るのかという感じですが,要は過去と向き合いつつも拘泥せずに先に行くべき時が来たんだな,と言う話でした.

 

 本大会も大きな瑕疵なく終えられたことを喜ばしく思います,関わった皆さんはお疲れ様でした.得た知見を次の世代へと送りつつ,皆さん自身も「次」へと進んでいけるとよい思います.

 

ではまた次の機会にお会いしましょう.