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Normalisation of Life

MD/Doctoring my doctor's document

競技ディベートを導くのは誰か

 

Who?

 

常に簡略化して,

・ディベーター

・ジャッジ

としましょう.さて,ここでジャッジがディベートを導く場合,どのような事態が起こるでしょうか.

 

あるラウンドにより導かれた結論Aが,とあるジャッジにとっては間違った結論であるように思えました.そして,ジャッジは自らの「フィロソフィー」に基いて,バロット上に「Aは本質的にはA'であり,得られた結論Aは間違っているので,……」と書くでしょう.そのA’が本当に論理的に正しいというのならば,不幸中の幸いでしょう.しかし,実際はA’が欠陥を含んでおりAの方が「より」良い結論であったら?

こういったジャッジングは非常に気持よいでしょう.自分たちが正しい論理をディベーターに教化したと感じられるでしょうから.が,しかしそう言った思い込みはディベーターの多様な議論を抑圧し,いつしかディベート界を偏向化させます.一つの絶対真実がそのコミュニティをruleしてしまうからです.その結果が今,問われているディベート界なのかもしれません.

 

或いは準備型ディベートの競技性に依ることも出来るでしょう.準備型ディベートの競技性,引いては面白さを保証するのは「予測可能性」です.全てをジャッジが導いていくとするならば,それは競技の予測可能性を完膚なきまでに破壊します.大会当日,いきなり現れた知らないジャッジの「フィロソフィー」など予測も何もないからです.(だからこそジャッジは,より良いディベートを判定するだけの架空の人格者にならなければならない)

 

ディベーターが導くディベートは全く異なるでしょう.時に稚拙な議論同士がぶつけられあい,よりよい議論構造(結論)を判定したとしても,それでも脆いものかもしれません.しかし,同時に強固に組み上げられた議論同士のぶつかり合いによって得られたより洗練された結論がジャッジの導きによって曲げられることはありません.また,その結論すらもラウンド上の”a truth"でしかなく,ディベート界の”the truth"ではありえません.またどこかのラウンドで問われ,比較し,洗練して,また別の”a truth”に近づくわけです.

 

 

懸念されるのは稚拙な議論の応酬でしょう.だからこそジャッジの導きが必要だと.そう言った主張もありえます.しかし,ディベートが前に進む手助けをするのはラウンド上ではないはずです.何のために試合後にリフレクションという形で,(そして3リバと言う形で)ディスカッションの場が設けられているか.そこで,ディベーターとジャッジが対等な立場で,ラウンド中に交わされた議論についてディスカッションが行われ,新たな議論構造への火種が生まれるわけです.

 

必要なのはラウンド上での「介入」ではなく,ラウンド終了後のディスカッションではないでしょうか.

 

(そしてそのディスカッションで得られた新たな議論の芽吹きすら,ジャッジは,新たなラウンドに入れば忘れなければならないのです)

 

……と言う訳で,ディベートを導くのはディベーターであってほしいなあと思うわけです.

 

(某所議論を見て書いたメモをそのまま転記)