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Normalisation of Life

MD/Doctoring my doctor's document

点と線のダイナミクス

 

はやがて無限に連続し,線となる.

 

 

 何の話かと思うかもしれないが,言葉の話だ.それも今回は,特に文章の話をしたいと思う.

 

 美しい文章とは何だろうか.その定義を確かに与えられるようなことがあれば,それは文章作法の革命であるし,言葉という無限の広がりを持つ世界の終焉でもある.要はそんなことは不可能だということだ.美しいという形容は,「蓼食う虫も好き好き」というし,"Beauty is in the eye of the beholder"とも言うし,対象を観察する主体によって言葉がそうであるように揺れ動く.従って美しい文章というものは定義が当たり前のように不可能であろうと思う.

 というわけで,僕が今回話すのは僕が思う面白い文章,或いはつまらないと思わない文章のことである.そしてその中で,語彙力と文章力は関わりがあるのか,と言うことについて触れたい.

 文章というのは例えばこの記事であれば,「点は……」から最後の末尾に来るであろう文までの大きな塊ということが出来る.文章は段落(paragraph)というユニットに分けられ,そしてその中で文,文節,単語と分解されていく,という風に小学校の授業で学習したと思われる.文章の話を展開しだしてなんだが,僕はこの日本語の区切り方について今Googleを使って検索をかけた.記事の信頼性などもともとないに等しいが,更に底辺に触れた気がする.

 ところで,「美しい」文章とのことだが,言葉の単位で「美しい」という語彙を付加できる単位とはどこからだろう.

 「美しい文章」.これは極めて自然であり,受け入れやすいのではないか.

 「美しい段落」.これはどうだろう? まず響きとして不自然だし,そもそもここでいう「美しさ」とは所謂構成の美しさで,個々の文章に重点が置かれていないように,僕には思える.

 「美しい文」.ここで再び自然さが回帰してくる.名言の類が流行る昨今(超訳ニーチェであるとか?),一文単位の文評価に関しては一家言ある人も多いかもしれない.

 「美しい文節」,「美しい単語」…….前者はやはり不自然で,後者の定義に関しては美しい文章よりも遥かに個々人での違い大きいだろうが,表現自体としては自然と感じる人もいるのではないだろうか? 「十六夜」であるとか,中学生くらいの時期に何か感じてしまって道を踏み外した人もいるのでは?

 こうして検討すると,一つ法則性のようなものが見えてくる.「美しい」と言う言葉を足して自然さを維持するのは,言葉を通して全体が見えてくるものであると言う仮説だ.ずいぶんともって回った表現をしてしまったが,つまりは「文章」・「文」・「単語」と言う言葉たちは,それ一つで完結しているのである.一方で「段落」「文節」と言う言葉は言外にそれらが集まって「文章」や「文」を構成するということを暗示しているということだ.「段落」は「文章」のパーツである,「文節」は「文」のパーツである,と言う感覚が我々にとって強い,ということである.

 このパーツ感覚と言うのが今回の僕の論旨について重要で,そして語彙と文章の関係性についても大きく関わってくる.

 我々の書く文章は個々のパーツへと分解される.それらはある種「点」である.そしてその点同士がうまく噛み合うことで美しい線へとつながっていく.この場合の「線」は文章はまたは文そのもので,点が最終的に描く線のダイナミクスが僕が文章を味わうときに最も重視していることだ.

 言葉=点には強さが有る.例えば単語の「強さ」が分かりやすい.「考える」と「検討する」は類似の意味を持つが,そのニュアンスは確実に異なるし,また重みも違う.「書く」と「記述する」,「分ける」と「分解する」,「食べる」と「食す」…….それそれの言葉がもつ「強さ」は僅かながらも,しかし確実に異なる.

 この問題を微妙にかつだからこそ語りがいのあるものにしているのは,この強さは明らかに相対的なものであるという事実である.そしてそれは類義語同士を並べることに依る相対化だけに限らない.「寝る」と「描写する」ではどちらのほうが「強さ」が有るだろう? 恐らくこう問われると後者を選ぶ人が多いと思う.それはなぜか? それこそが言葉のニュアンスであり,容易に語ることを難しくしている曖昧性だ.(ここではその「感覚」については踏み込むことはしない)

 言葉には強さがあり,そしてその強さが相対的であるということを認識すると,文にダイナミクスという言葉を当てはめることの意味が少しだけ明らかになる.つまりは単語に強さの違いがあるのだから,その強弱を利用すれば文に彩りが付加されるということだ.例えば比較的「弱い」「平易」な言葉が並んでいる中に突如として「強い」言葉が現れると,文の中に動きが生じる.文の緊張感は上昇し,焦点がその言葉に容易に移っていく.逆に文が「強い」「難解」な言葉が並んでいる中に急に「弱い」言葉が現れると,それまで保たれていた文の緊張は緩み,そしてその緩んだ感覚は全体にも影響をあたえるかもしれない.(緩んだ緊張を再び引き上げることは難しい) このようにして,文にはダイナミクスが生じる.

 このダイナミクス=強弱の巧拙こそが僕の主張する,作文において最も重要な視点である.文の印象は微妙な力強さを巧みに上下させることで大きく変わってくる.言葉と文の関係は点と線だが,そのつなぎ方にこそ個性と技術が浮き出てくるのだ.

 例えば淡白平坦な文章.これはある意味で言葉の力強さを読み余ってはいないと言えるかもしれないが,そこに鮮烈さはなく,印象に乏しい.そういった文章は記憶には強く染み付かずに短期記憶のまま消え去っていく.

 平坦さというものは「弱い」「平易な」言葉を並べた時にだけ起こるのではなく,「強い」「難解な」言葉ばかり並べた時にも起こりうる.最近読んだとある翻訳に関する記事の中で,MBAホルダーに一定する共通する(様に思われる)英文の傾向が語られていた.彼らは所謂世間一般から見た教養人であり,インテリジェンスの体現である.それに自覚的なのか,彼らの英語は難単語が散りばめられ,複雑な例を多用し,結果として面白みがなく意味不明になっている場合が散見されるというものだ.これは文章の力強さの調律を間違った典型的な例である.読み手が存在することを忘れて「強い」言葉を並べすぎた結果,逆に平坦かつ,しかも理解が余計に難しくなってしまっている.

 さて,もう一つ例として,強弱を見誤った文章も挙げなければいけないだろう.これは意図的かそうでないかは定かではないが,言葉の重みを見誤り,文体とまるで一致しない難解な言葉を使ってしまったり,或いは知性的な文を描こうとして,平易に過ぎる単語をふと選択してしまったりする場合に起こる.

 この場合,後者の文章=平易に過ぎる言葉を誤って用いてしまった文章,はある意味前者よりも罪深い.先程述べたが,文の中で保たれている緊張が一度解かれてしまった場合,再び元の位置にまで戻すことは難しい.物理に限らず,何事も高い位置から一度エネルギーを使いきって低い位置に落ち着いてしまうと,元に戻ることはそう容易では無いのである.だからこそそう言った類の文章を書くときは普段よりもより気を配りながら一単語一単語を選んでいく必要がある.

 

 こういった言葉の強弱問題は,決して単語のみにとどまらない.何故なら言葉のダイナミクスは意味にまで波及するからだ.

 再び単語で例を挙げると,「殺す」と「飲む」では全く関わりのない言葉だが,しかしその言葉から感じられる言葉の強みは前者の方が圧倒的だ.先ほどの「寝る」と「描写する」では,音読み訓読みの違いであるとか,「二字熟語+する」のような形式的な側面で何となくの違いを感じていたと思うが,今回は完全に意味において=その言葉が指ししめす行為の違いにおいて強さの違いが現れる.

 そして意味においての言葉の強さが現れるならば,文章と文における関係性にも言葉のダイナミクスを認めることが出来るはずだ.文は何らかの意味合いを読者に伝え,そしてその統合された形が文章だ.ならば,文が持つ力の強弱を上手くつないでいくことで上手く整合的に作り上げられた文章が生まれ出るのは極自然なことである.

 

 単語の選択において文の中で言葉の強弱が生まれ,総合的に文の力強さが決定され,文がその強弱を元に構成されて全体としての形を作り上げる.その結果こそが文章である.ここに点と線のダイナミクスが生じている.この文のうねりというべきものが,美しい文章にとって不可欠なものの様に思われる.

 

 ところで,語彙と文章力の関係性についてだが,多少の関連はある,と言うのが僕の意見である.というのも,ここまで語ったように,言葉にはそれぞれ別個に力強さがあり,それらを上手く=違和感なく紡いでいくためには,どのような言葉の強さのレベルであっても充分な語彙を保持しておくことがある程度求められるからである.

 しかし当然語彙力が全てでないのは明らかで,使える言葉が制限されていたとしても,それらを意味において上手く強弱を付けることで,単語単語間の違和感を上手く解消し,全体として上手く練りあげることが十分可能であるし,そう言った才能を持つ人は世の中にたくさんいるはずだ.

 それでもなお,やはり語彙力はあって困るものではないし,何より最低限のレベルが保証されていなければ,求められる文の硬質性に対して自らの基礎体力がそれについていかないということすらあり得てしまう.故にインプットとアウトプットというものは上手くバランスが取られていなければならない.

 

 ずいぶんと言葉を無意味に費やしてきたが,僕が言いたいことは単語・文の「強さ」と言う側面について焦点を当てる必要があるということである.勿論それはある程度誰もが意識しているというのが実際のところだろう.それほど新しい概念ではないことは確かである.しかし,時に文章の整合性というものは,その文章のみならず,著述者のインテリジェンスまでも残酷なまでに白日のもとにさらしてしまう.たった一語の洗濯の誤りが,文章全体の品位までも貶めてしまうことがありうるのだ.

 逆に言えば,このダイナミクスを上手く使うことによって内容以上の力強さを生み出すことも可能であるとも言える.例えば演説とは一種そのような側面が強く,内容を如何に上手く言葉によってコントロールするか,が肝要に思われる.

 

 ……さて,翻ってみてこの記事の文章はどうだろう? 違和感だらけ? ならばその違和感を持った貴方はこの文章を踏み台にして,より一歩求める「美しい文章」に近づいてもらいたい.という示唆を締めの言葉として本記事を終わらせる.