Normalisation of Life

MD/Doctoring my doctor's document

ふと

 

は自身が無知な存在だと思う.

 

  人より多くのことを知っているわけでは当然ないし,それどころかきっと狭い世界を見続けてきた結果として,蓄積してきた情報はひどく限られている.時々どうしてこんなにも偏狭な見方をしてしまうのかと首を捻らざるを得ないこともある.なので,僕は自身が無知であることをもって非難されても,そうですか,と受け入れるしか無い.敢えてそれを非難と呼ぶのも変な話で,実際はそれはただの事実確認にしかなっていない.

  ところで,唐突だが情報というものは無限大だ.否,無限大になりつつある.ここでいう情報とは,或いは知恵,知識と言い換えても良いものであって,その存在が恐らくある一定の事実として後世に伝えられていくであろうものを指している.AさんがBさんを詰った,路傍の石がCさんに蹴り飛ばされた,などと言うのは一つの情報とも言えるが,それは時間の大きな流れの中にあって,飲み込まれ消えていくものにすぎない.話が逸れたが,「情報」は昨今の地球村化にともなって,指数関数的に増加している.神戸大学感染症内科の教授であるI先生がよく言うように,例えば「医学知識はこれから73日間で2倍になる」と言われている.そしてこの「73日間」は気づけば「数日」レベルにまで達するだろう.

  こういった情報の過多化の中にあって,無知を理由に他人を貶すことは非常に容易になった.恐らく権威ある学者でさえも,僕のような無学な人間が,彼/彼女のある知識の欠如を指摘することは容易い.「ところで,Aということについてご存知でしょうか.ご存じない? ……ああその程度の狭量な認識で,そのような発言をなされたのですか」簡単なことだ.

  そして容易になったということは,それはつまりこの方法を用いて躍起になって他人を攻撃する人間が増えるということだ.ネットと言う集合知が一度炎上すればイナゴの群れの如く匿名の刃が四方八方から飛来し,身を傷つけていく.誰にでもそんなことが起こる可能性がある.それは僕も,そして今この文章を読んでいる貴方も例外ではない.

  だからこそだろうか,無知を指摘されることを恐れている人間も同じように増えている気がする.いや,そういった人々は無知を指摘する人々と実は同値なのかもしれない.

  増えているとが言ったが,別にこれは統計的なエビデンスがある話でもなく,メディア媒体でそのような話を見聞きしたというわけではない.実を言うと単にそういう人がいるような気がする,と言う思いつきからこの文章が発生したから,そう述べたいというだけだ.

  ともかく.無知を恐れる人々は,「全て」を知ろうとする.無論そんなことは可能ではないのだが,出来る限り人から突かれないように自らを防護しようと躍起になる.ふとした拍子に零れ落ちた言葉が,攻撃の的にはなりたくない.だから「全て」を知ろうとする.結果として「知らない」と言うことから目をどんどん逸らしていく.「全て」を知ろうとして,「知らない」ということを知らなくなっていく.

  そういった人達の中には,自分が発言する一語一語に偏執的に気を払い始め,それに疲れきった結果,何も話さなくなる人も居るだろう.自分の中で,発したいと思う言葉を滞留させ,解き放つことはしなくなる.或いは,「知らない」ことを恐れ,そこから目をそらし,「知る」と言う行為にとりつかれた結果,「全て」を知っているかのごとく傲慢になっていくかもしれない.まあそんなことはどうでもいい.

  僕がこんなにも無駄な文字数を費やして何に繋げたいかというと,別に「知らない」ことは怖くないということである.それは何とも自然なことで,人が,疲れれば眠りを求め,腹が減れば食物を求め,快感を得るために性をぶつけ合うのと大差ない.それくらいアタリマエのことなのだ.

  僕が何より恐れていることは,知ろうとすることを諦めてしまうことであり,知ろうとすることを拒否することである.そしてそれは前述の「知らない」ことから目を逸らした人達が陥っている深淵だ.彼らは「知らない」ことを知ることを諦めている.

  睡眠欲も,食欲も,性欲も,それらを知ろうとすることで我々は理性の配下に置くことが出来る.同じように「知らない」ということも,それを知ろうとすることで,我々は「知らない」でいることを手の内に納めることが出来る.しかし,それらに目を向けることをやめてしまえば,いつか手の内からまろびでて,自分を,そして貴方の回りにいる人を傷つけてしまうかもしれない.

  自分が「知らない」存在であることを受容するのは決して難しいことではない.ただ当たり前の自分に目を向ければ良いだけの話で,それ以上でも以下でもなく,自然と自分の「無知さ」が浮かび上がってくる.そうすることで,「知る」自分と「知らない」自分の境界がやがて明瞭化し,そこに統制の糸口を見つけることが出来るかもしれない.

  まあ何ということはない.「無知の知」というやつだ.実に古い概念で,今更新しくもなんともない.けれど多量に過ぎる情報と,そしてそれを調べ尽くすが如き検索エンジンの普及で,「知らない」ということに目を向けることはもしかしたら少なくなっていくかもしれない.或いは「調べて分かる」=「知っている」というような概念の変化が生まれ,「知らない」と言う認識が薄れていくかもしれない.そういった時に「知らない」自分を「知る」ということは意外に大きな意味を果たすかもしれないということだ.

  冒頭に僕は自分が無知であると思うと書いたが,別にこれは上から目線で僕の認識を他者に押し付けたいわけでなく,僕自身もある部分では自分が「知っている」存在だと傲慢にも思っているところが割りとある方だと思う.だからこそ敢えて自身の無知を口に出すことで,律すると言う思いもあるのかもしれない.実際最近の自身が自らを必要以上に過大評価していると感じる時があって,それをもって行動に転じてしまっていると思う.まあそれはどうでもいい話だが.

  「知らない」ことを「知る」と言うのは非常に有り触れた概念で,手垢のついたクリシェであることは間違いない.けれどそうやって有り触れすぎているからこそ,無意識に沈下し,意識に上ってこなくなってしまうかもしれないのだ.だからこそ敢えて言葉を費やしてこう言おうと思う.

  "Realising you know nothing is far better than pretending that you know everything."

 

 

 

注1:この文章は,筆者が文章を書きたいがために無理やりひねり出した文章であり,筆者の個人的見解,実在の人物,事件とは一切の関係がありません.
注2:国語の文章に出てきそうな文章を目指しました

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